読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

いつまでも脛をかじる子供は、早く切ってしまえ。

前項で、下請企業や、本業から外れた子会社への投資には、利益を生まないものが生まれやすいことを述べたが、それだけではない、バリバリの本業に関連した子会社の中にも、時流が変わればお荷物になることもある。そんな事例を紹介したい。

 

自動車業界が急成長していた頃。 どこの企業もフル生産を強いられ大多忙期を経験した。 造っても作っても、次から次へと注文がくる。 設備を増強し、人を臨時採用し、必死で対応してきた。 一部品メーカーのせいで、カーメーカーのラインをストップさせたら大変なことになる。 とにかく必死に対応したものだ。 それでも、労働力確保は日増しに深刻になっていった。 そんな中で、手を打ったのが、四国の田舎街である宇和島への工場 (子会社) 建設であった。 

 当時、宇和島には産業らしきものはなく、「漁業」と「みかん」ぐらいで、ひっそりと生計を立てていた地域である。 そんな所に大手企業が進出するのだから、地域から大変熱い期待を持って受け入れられた。 事実、経済的閑散地に雇用機会を創造させ、大いに地域活性化に貢献した。 

 しかし、時流とは、むなしいものである。 この労働力不足に国も対応するようになってきたのだ。 それは、ありがたいことではあるが、採用方法や就業形態を大きく変化せてしまったのである。 いつしか、労働不足を、外国人労働者の派遣で補うようになってきた。 コストも安いし、良く働く。 あっという間に広まった。

 こうなると、遠方に生産工場を進出させたことは、逆に足枷になってきた。 ご存知のように、自動車業界には「ジャストインタイムのモノづくり」と言う、世界に誇る生産方式がある。 これを支えるのが、下請け企業の並々ならぬ努力である。 このために「アッセンブリ―メーカー」の近くで生産することは常識となっていた。 

 我社もその戦略を永年取ってきた。 しかし、あの時点では、人の確保が期待できなかった。 人を確保する企業が勝つと思った。 そのためには、工場が人のいる場所に出ていくしかなかった。 勝ちにいった積極策が裏目に出たのである。

 労働力確保は出来たが、物流問題が勃発したのである。 中間物流が多発したのである。 設備投資を抑えるために、主要工程は本社工場が受け持ち、周辺の工程だけをこの工場で請持つことにしたのである。 このため、工程が分断され、中間物流が多発することになった。この中間物流のコストが重さなり、次第に価格競争力を失っていった。

 

 この頃、私は、まだ経理部長だった。 実務に追われ、子会社のことは頭になかった。 当然、何も動けなかったし、事態も理解していなかった。 そこに、社長のI氏から「撤退」の指示が出た。 社内の検討が一向に進まないことに業をにやし、社長が自ら決断をし、指示を出したのである。 あまりにも早い決断のため、疑問を抱いた者もいた。

 そんな中、原価を担当する取締役S氏が調査に乗り出した。 結果は、社長の思っていた通りである。 価格競争力は完全になくなっていた。 解決策も見つからなかった。  これで、撤退はより鮮明になった。

 ここまでは早かった。 社長のトップダウンで進めるやり方が功を奏した。 問題はここからだ。 手のひき方に頭を悩ましていたのである。 俄然、進行は足踏み状態になった。   

 その理由は、撤退することで発生する莫大な損失計上にあった。 私には、それほど大きな問題とは思わなかった。 子会社の損失は、連結決算上では、既に取り込まれているので撤退したからと言って、大きな損失は生しないことを知っていたからである。 それでも社長は躊躇した。 まだ、個別決算も重要視されていた時代なのでそれも納得できた。 ここで、ちょっと説明しておかなければならないことがある。 あの当時は、債務超過の子会社を清算したからと言って、債務超過額以上の損失は出なかったが、今は、ちょっと違う。

会計ビックバンで「減損会計」が義務づけられたからである。 「所有する事業用資産が将来見込まれる利益で回収できないと明らかになった場合は、その回収不能額を前もって損失に計上」しなければならなくなっている。 この規定に沿って処理をすると、それは、もう、びっくりするくらいの損失を計上しなければならなくなる。 それに、「宇和島に進出したことが誤り」だったことを自主申告するようなものである。 経営者として躊躇するのは、あたり前である。 あれだけ、全力疾走で検討してきた案件が、急に迷路にはまった瞬間であった。

 

 ここからが、私の出番である。 やれるかどうか分からないが黙っていられなかった。 また、手を上げた。 「私に、その対処法を提案させて下さい」 周囲は「おぉぉ、またかよ! 」っていう雰囲気に包まれた。 正直言うと、私にはこの雰囲気が心地よかった。 なぜか自分の存在が認められていくような気がしたのである。 「だから挑戦は面白い」と思えたのである。

実は、私には、外部にブレーンがいた。 出向元の税務責任者と、社外の税理士法人である。 このことは別の章でのべるが、 このブレーンに相談すればなんとかなると思ったのである。

 私の考えはこうである。 「清算すると大きな損失が出るのであれば、利益が出ている別の子会社と合併することで、何年かかけて、穴埋めをしていこう」と考えたのである。 至って簡単な考えである。 だが、実務面でいうと、なかなか難しいのである。 一般的に「債務超過会社を合併することは資本充実を訴える会社法では認められない」のである。 加えて「あらゆる所で税務問題が発生する」のである。

 面白いもので、壁が高ければ高いほど人は燃えるものである。 私も、昼夜を通して考えた。 そして、見事この壁を乗り越えた。 その方法は、税務上で認められるようになった「適格合併」の方法と、当時、流行っていた「デット・エクイティ・スワップ」を使ったのである。  まさに旬な方法を先取りするような手であった。 

 このマニアックな処理に、誰も議論に入ってこれなかった。 私の独断上となった。 社長も、すぐ了承してくれた。 早速、関係者を呼び、その決定を伝えた。 こうして、足踏みしていた案件は一気に進み出した。

 

 1件落着したが、実は、この話にも、続きがあった。

それは、半ば、私の独壇場できめた処理に賛成しなかった者も少なからずいた。 とりわけ、重荷を背負うことになった「子会社の社長」は、そのうちの1人であった。 「こんなのやってられないわ!」と、思ったのだろう。 別会社を設立し、自分が深く関与していた事業のみを持って出て行ってしまったのである。 残った事業を、私に、「社長をやれ ! 」と言うのである。 こうして、私自信が、重荷を負うことになってしまったのだ。 いやはや、言い出しっぺと言うのは、それなりのリスクを負うものである。 でも、この子会社の社員が頑張ってくれた。 年商100億円を超える立派な会社である。 予定よりも2年も早く目的を達成してしまったのである。

 

 ここまで、経験談を長々話してきたが、要は「大事を成すためにはブレーンが欠かせない」ということである。 それも、社外に持つことである。 社内では見つけられないことでも、外からは見えることが結構ある。 それに、過去に拘らない。 いつも、挑戦のスタンスを持つことができるのである。